人間不信だった時の話を少し。

僕は小さい頃、僕の知っていることは僕以外の全ての人間が知っているものだと思っていた。今思えばありえないことだが当時は本気で信じていた。今もありえないと思っていながら、どこかでもしかしたらと思っている。

 

 

小学校の頃は学校の勉強を親に付き合ってもらっていた。

当時小学生の半分以上がやっていたと思われる進研ゼミのチャレンジにチャレンジし(遂には6回もやめてはじめてを繰り返してしまった)、解けない問題を親に質問していた。

親はいつも知らないふりをしていた。この問題わかる?と聞けば、わからないから一緒に解こうと言われ一緒に考えていた。親なりの優しさだったのかもしれない。

 

 

しかし、僕が問題を解き終わると、合ってるよ、とその問題の答えを知っていたことを明らかにされた。それが小学生の頃当たり前だった僕は、僕の知識なんて微々たるもので僕以外の人間は知らないふりをしているだけなんだと思っていた。僕が話すことも考えることも全てみんな知っている。

 

 

僕は人間不信になった。

 

 

それが抜けなかった僕は自分の話をしなくなった。いつでも心の中を覗かれている気がして怖かった。だからできるだけ自分を出さないようにしていた。

親にも友達にも本当のことは言わない。言ったところでそんなことは周知の事実だし(僕の中では)、自分のことはできるだけ知られたくなかった。

 

 

そんな事が続くと今度は、自分の考えを知られているなら僕もそうなればいいと思って相手の考えていることを考えるようになった。自分なりに抵抗しようとしたわけである。

 

 

僕の発言に対する相手の返答を3〜5個考えてそれに対する僕の返答を考える。続けていくと全て会話になり自分の中で完結する。それを現実で再現する。予測返答は1つではないからだいたいどれかが当てはまる。頭の中で話は終わっているから面白い場所で笑えない。そんな時はお得意の笑うふりで解決する。たやすいことだ。

 

そんなことを小学生の頃からやっていて、マシにはなったものの今でもその癖が抜けていないなと感じる事がある。

 

 

そんなふうに考えているなんて誰も思わないから僕は不思議ちゃんと呼ばれるようになった。

何を考えているかわからない。実際は考えすぎて自分を出せていないだけだが。

それに僕からすればみんなが何を考えているか考えるのに必死だったし、僕からすればみんなが不思議だった。

 

 

 

そして、そのまま高校生になった。

 

高校に入って、僕は小学校の頃に植えついた考えが間違っていたことに気づく。